イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「何事も、立派なことは……。」:〈ひと〉論について、論じ終えるにあたって

 
 私たちは『存在と時間』の〈ひと〉論について、論じておくべき論点についてはたどり終えた。ここまで来て、「世界内存在しているのは誰か?」という、この本の最初で提起された三つの問いの最後の一つには、答えが与えられたことなる。
 
 
 問い:
 世界内存在しているのは誰か?
 
 答え:
 日常性においては、世界内存在しているのは〈ひとである自己〉である。
 
 
 日常性において、わたしは〈ひとである自己〉として、〈ひと〉の平均的なあり方についてゆこうと絶えずそれとなく気づかっている。今、〈ひと〉の間で何がさかんに語られているのか。何が話題のトピックで、わたし自身は、〈ひと〉の間ではどのように数値化されているのだろう。現存在であるわたしはこうして、実存カテゴリーとしての〈ひと〉の現在を追いかける。〈ひと〉の世界は目まぐるしく回り続けてゆき、その交代と変遷とはとどまることがない。
 
 
 けれども、わたしはその一方で、本当は知っているのである。わたしがこうして〈ひと〉のことを気に病みつづける限り、わたしはいつまでも世界そのもの、生そのものにはたどり着くことがないだろう。わたしは何かを知る代わりに、〈ひと〉がその何かについて、どう思っているのかを知るだけで終わるだろう。〈ひと〉の影響力はまずもって、わたし自身のうちで、わたし自身に対して働きかけてくる。他の人々と自分を比べたり、発言する前に他者の目線を過度に気にしてしまっているのは他でもない、現存在であるところのわたし自身なのである。
 
 
 自分自身ではなく〈ひと〉に合わせてしまっている時というのは、自分でもわかるものである。そして、〈ひと〉がハイデッガーの言うように、「実存カテゴリー」であるのだとすれば、こうしたことから完全に逃れられる人などは存在しないのだろう。自分でも「本当に言いたいことは、これとは少し違うんだけどなあ……」といつも心のどこかで思いながらも、自分自身の内側で思い描いた〈ひと〉の目線に付きまとわれ、存在するのかしないのかわからない〈ひと〉の幻影に振り回され続けるというのが、多かれ少なかれ、人間の宿命というものなのかもしれない。
 
 
 
存在と時間 世界内存在 プラトン ソクラテス 実存
 
 
 
 その一方で、私たちに対して、これとは全く別のことを主張する人々もいる。彼らのうちのある人々は哲学者と呼ばれていて、彼らの残した言葉のいくぶんかは古典となって、今でも書物のページをめくるならばすぐにでも出会うことができる。
 
 
 彼らは言うだろう。生きることとは徹頭徹尾、戦うことである。一体どうして、そうでないことがあろうか。人間は自分自身の全存在を賭けて戦うのだが、まず何よりも、自分自身の内側から自分を縛りつけている、自らの〈ひとである自己〉と戦うのである。なぜならば、この戦いを息を切らしながら戦い抜くのでない限り、人間に対して、生きることの本当の意味が明かされることはないからだ。
 
 
 でも、わざわざそんなことをするとしたら、私たちはまず間違いなく、する必要のなかった苦労を背負いこむことになるのではないのか?私たちのこの疑問に対しては、彼らは次のようにきっぱりと答えることだろう。もちろん、苦労するのだ。プラトンソクラテスにこう語らせていたではないか、何事も、立派なことはすべて困難なことである、と。君も一人の真剣に考える人間として、こんなことにうかつに手を出したりしなければよかったと思うくらいに苦労するのだ。だが、そうでなければならない。逆に尋ねるが、君は人生のうちで本当に価値のあるものが何も苦労せずに得られると、思っているのかね?
 
 
 哲学者たちのこのような言葉に対して、後学の徒である私たちとしては、返答に窮するほかない。しかし、彼らは彼ら自身の生涯の奮闘をもって、何の役にも立たないと二千年以上にわたって言われ続けてきた哲学の営みが、なぜか2021年の現在においても知恵の王者として曲がりなりにも認められている、という目に見える結果を残してくれてもいる(「友よ、我らは我らの戦いを終えた、後は君の番だ」)。『存在と時間』の実存論的分析もまた、他のどんな物事にもまして自己自身の生の善きあり方を気づかうことを説く、哲学の偉大な伝統に属していると言えるだろう。このことを確認した上で、私たちとしては〈ひと〉論を後にして、次の主題の方へと進んでゆくこととしたい。