イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「非常にセンシティブで、慎重を要する問題」:「死へと関わる存在」の分析へ

 
 実存の本来性の圏域へと踏み入ってゆくにあたって最初に問われるのは、人間の「死へと関わる存在」に他ならない。
 
 
 論点:
 『存在と時間』の第二篇第一章のタイトルは、「現存在の可能な全体的存在と、死へとかかわる存在」となっている。
 
 
 哲学史に残っているテクストの中で死を主題的に取り扱った論考というのは、実はそれほど多くない。ましてや、学問の探求の対象としてこの主題を論じたものとなるとその数はさらに少なくなってくるわけで、この『存在と時間』第二篇第一章は稀少な例外の一つであると言えるであろう。おそらくは、哲学を学んでいる学生が「死」という主題について先人たちが何を言っているのかを知ろうとする場合、まずはこの『存在と時間』にぶつかることになるといった実情になっているのではあるまいか。
 
 
 一体なぜ、死についての論考はこれほどまでに少ないのだろうか。さまざまな理由が考えられるが、その最も大きなものは率直に言って、死というこの主題が、人間には正面から扱うことがためらわれるほどの深淵として立ち現れてこざるをえないという事情のうちに求められるものと思われる。
 
 
 誰もが知っているように、私たち人間はみな、いずれ必ず死ぬ。しかし、たとえば「人間は死んだらどうなるのか?」という問い一つに対してさえも、一切の信仰や信念を拠りどころとすることなしに絶対的な確実さをもって答えを与えられるという人は、この世には一人も存在しないのである。ただし、死というこの出来事が人間にとってこの上なく大きな意味を持つ「出来事の中の出来事」であることだけは、誰もがうっすらと認識している。一人一人の人間が、絶対に避けることのできない深淵にいつの日か必ず向き合わされることになるというのは、改めて考えてみると、非常に重大なことであると言えるのではないだろうか。
 
 
 
実存 存在と時間 現存在 死 ハイデッガー 存在の超絶 レヴィナス
 
 
 
 かように深刻な主題を前にして人間の世界は、ある意味では賢いとも言えなくもない方策を採用している。すなわち、人間の世界では、この主題を存在しないことにしてやり過ごすことにしているのである。
 
 
 事実、私たちはたとえば、日常のうちで「まあ、誰もがいつかは死ぬからね」といった言葉を交わし合うことはあるけれども、真剣な顔つきで「ちょっと待ってくれ。死というこの問題はなぜか皆スルーしているけれど、実はとても深刻なものなのではないか?」と問う人はほぼ皆無であると言ってよい(そして、誰かこのように問う人が仮にいたとしても、遺憾なことながら、この問いかけもまたそれ自体、スルーされてしまうことであろう)。なかったことにして毎日を過ごすことにすると、そのうちに実際にも「ない」と思い始めるというのは非常に不思議なことではあるが、後にハイデッガー自身の議論に即して見るように、これが私たち人間存在の、死に対する一般的な向き合い方であると言うことができるだろう。繰り返しにはなってしまうが、人間の世界の日常においては、死という出来事は、少なくとも基本的には「存在しないことになっている」のである。
 
 
 死をめぐる事情がこのようになっているのであってみれば、この主題について語るというのは非常にセンシティブで、慎重を要する問題であることは確かである。打ち明けて言うならば、『存在と時間』について書くようになってからは以前よりも多くの人に読んでもらえるようになったこのブログ(読解に付き合ってくださる方がいることは驚きであって、本当に感謝に堪えない)も、死について論じ始めた途端に読者が絶無になるのではないかと、筆者は今から少し心配している。当の『存在と時間』がこの主題を正面から論じているのであってみれば、もはやどうにもならないことではあるのだが……。
 
 
 しかし、まさしくどうにもならないことであるゆえに、筆者も少なくとも一時的には沈没する覚悟を決めるほかなさそうである。これから一ヶ月ほどは腰を据えて、ハイデッガーの「死へと関わる存在」をめぐる議論に、正面から向き合ってみることにしたい。なお、この機会を逃してしまうと次に書く機会がいつ来るかわからないので、ここで書かせていただくこととしたいが、筆者にとって、このブログを読んでくださっている方がいることは、この上なく大きな励みになっている。現在のところ、「存在の超絶」の哲学の構築という目標を先に見据えつつ、ハイデッガー(と、その後にはレヴィナス)の著作の読解に取り組んでいる最中ではあるが、おそらくは生きている限り、筆者はこの場所で哲学の営みを続けることだろう。ほんの時おり、気の向いた時にでも探求に付き合っていただけるならば、筆者としてはこれ以上の喜びはないのである。2021年も少しずつ終わりに近づいているが、この文章を読んでくださっている方の上にも、恵みと平和のあらんことを……!