イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「何か根底的に新しい、一つの哲学の時代が……。」:2022年の哲学の探求を始めるにあたって

 
 2022年を迎えたが、今年もこれまでと同じく、ひたすら哲学の営みに打ち込んでゆくことにしたいと思う。今回の記事では年の初めということで、まずは今年の最初の目標を掲げつつ、この後の探求のために気分を整えておくこととにしたい。
 
 
 2022年の当面の目標:
 『存在と時間』の読解を継続しつつ、実存論的分析の歩みを、現存在であるところの人間の本来的な全体的存在可能を実現するはずであるところの「先駆的決意性」へと到達させる。
 
 
 論じるべき問題が多岐にわたっていたので、『存在と時間』の読解を始めてから思いがけずはや8ヶ月が経ってしまったが、私たちの読解も、ようやく大詰めの段階に入りつつある。現在は「死への先駆」をめぐる議論の仕上げに取りかかっている所であるが、この作業を終えた後には、この「先駆」をも踏まえた「実存の本来性」の完成形態にして、「本来的な自己を生きること」の実現であるところの「先駆的決意性」の方へと議論を進めてゆくこととしたい。
 
 
 「死への先駆」と「決意性」について語られている『存在と時間』の後半部の議論のうちには、現代の哲学が論じるべき問題が、この上なく豊かな仕方で絡まりあっている。その錯綜する絡まりと格闘し、一つ一つの事柄を丁寧に解きほぐしながら、最終的には「人間が本来的に実存するとはいかなることか」という問いに対して『存在と時間』が与えた比類のない答えに到達することが、当面の目標である。ある意味ではここからがこの本の真骨頂であるため、筆者は年の初めにあって、大いに奮起させられている。
 
 
 今年の探求を始めるにあたって思い起こしておきたい、一つの歴史的な情景がある。的場哲郎氏の研究を参考にしつつ、『存在と時間』が出版されるよりも数年前のある場面を、ここに思い浮かべてみたいのである。
 
 
 時は1923年の8月から9月、場所はハイデッガーが休暇中の思索の日々を過ごすことを常としていた、トートナウベルクの山荘である。ここには、二人の登場人物が出てくる。一人はもちろん、私たちの読んでいる『存在と時間』を数年後に書くことになるマルティン・ハイデッガーその人で、彼は仕事のために持ってきたディルタイとヨルク伯の『往復書簡』を、熱心に読みふけっている。そして、その光景を静かに眺めているもう一人の登場人物は、彼の最も親しい弟子の一人で、後年には師から学んだことをもとに自分自身の哲学を築き上げることになった、ハンス・ゲオルク・ガダマーに他ならない。
 
 
 
存在と時間 死への先駆 ハイデッガー トートナウベルク ハンス・ゲオルグ・ガダマー 往復書簡 存在の問い
 
 
 
 この、1923年の夏における『往復書簡』の読書はハイデッガーにとって、非常に大きな意味を持つものであった。それというのも、この読書の経験は、「生きることを取り戻す」を主要なモチーフの一つとしつつ「存在の問い」を提起するという構想を持つ書物であるところの『存在と時間』を後に彼が書き始めるための、決定的なきっかけをなすものであったからである。『往復書簡』を読むことから生まれた思考のうねりはハイデッガーの中で次第に押しとどめがたいものとなってゆき、このうねりのただ中での模索と格闘の中から、20世紀を代表する哲学書としての『存在と時間』が生まれた。このトートナウベルクの山荘の場面における二人の登場人物について、彼らのそれぞれがまさにその場で何を感じ取っていたのか、ここで少しだけ想像力をめぐらせてみることとしたいのである。
 
 
 まずは、ハイデッガーである。年齢にして30代の半ばにさしかかった彼は、いよいよ自分が哲学者としての本格的な戦いの時期に入り始めたことを実感しつつ、テクストを読みふけっている。彼はすでに、これまでの哲学の歴史において、名だたる先人たちによって何が探求されてきたのか、今の哲学の世界にはどのようなベテランたちがいて、アクチュアルな問題として何が論じられているのかといったことに関して、自分なりの見解を持っている。今や、彼自身が自分自身に与えられた最も固有な戦いを開始すべき時が近づきつつある。そのような感慨を抱きながら、彼はやがて来たるべき自分自身の、何一つ妥協するところのない仕事の到来(「『存在する』という語の意味するところについて、今日の私たちは何らかの答えを持っているのか?断じて否である……。」)を予感しながら、目の前にあるテクストを読んでいるのである。
 
 
 もう一人のガダマーはいまだ20代の前半という年齢にあって、現代でいえば、大学院での勉学を開始してから少し経ったか、という位の時期にある。しかし、彼は知的に鋭敏なところのある若者にはよく見られるように、今まさに生まれつつある未曾有のものを、いかなる先入見にも囚われることなく受けとめる直観力を身につけている。彼は、自分の年若き師がテクストの読解に没頭している姿を見つめつつ、何か根底的に新しい一つの哲学の時代がやって来るのではないかと、ひそかに胸を高鳴らせているのである。
 
 
 この場面は、哲学の歴史は動くときには本当に動くということを私たちに教えてくれていて、非常に示唆的である。すでに述べたように、その当時の彼らはそれぞれ30代後半と20代前半といった年齢に過ぎなかったのであって、おそらくはこの二人のどちらにも、きわめて多くのことが見えていなかった。しかし、それでいて哲学の歴史は本当にその後、彼ら自身がそう信じた通りに大きく動いていったのである。考える人がテクストを根源的な仕方で読み直す時に、哲学の歴史は再び動き出す。そのことを念頭に置きつつ、私たちも、次回からは本格的に2022年の読解の作業に取りかかることとしたい。
 
 
 
 
[明けましておめでとうございます。2022年もよろしくお願いいたします!]