イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「誰にでもできそうで、誰にもできないことを」:マザー・テレサが、ロンドンの通りすがりの男性にしたこと

 
 「良心の呼び声」を聞くことは人間に、どのような変容をもたらすのだろうか。この点について考えてみるために、前回に引き続いて、マザー・テレサの言葉に耳を傾けてみることとしたい。
 
 
 「私はあの時のことを、絶対に忘れることはないでしょう。ある日ロンドンの街を歩いていて、ひとりの男性がとても寂しそうにポツンと座っているのを見かけました。私は彼のところへ歩いて行って、彼の手をとり握手しました。彼は大声でこう叫んだのです。『ああ、人間のあったかい手に触れるのはほんとうに、何年ぶりなんだろう!』彼の顔は喜びで輝いていました。[…]私は、この経験をするまでは、このような小さい行為がこれほどまでに喜びをもたらしてくれるなんて、全くわかっていなかったのです。
 
 
 マザー・テレサは折に触れて、人間にとって最も辛いこと、それは「誰からも必要とされていない」と感じることであると言っている。「必要とされていない」とは、究極的には愛されていないということに帰着する。人間存在は、愛されることなしには生きてゆくことができないと、彼女はその生涯にわたって語り続けていた。
 
 
 ここで語られているロンドンの男性は、マザー・テレサに手を握ってもらうことによって、自分自身の存在を改めて奥深いところから感じることができたものと思われる。私たちはここで、一つの疑問に突き当たる。彼女にはなぜ、そのようなことができたのだろうか。なぜ、手を握るというたった一つの小さな行為だけで、街を歩いていたその男性の心を暖かいもので満たすことができたのだろうか。
 
 
 この点に関するマザー・テレサの答えは非常に明確なものである。すなわち、「私たちは祈ることなしには、本当の意味で人を愛することはできない。」神に向かって語りかけ、心の中に語りかけてくる沈黙の「呼び声」に耳を傾け続けることなしには、人間は隣人を真に愛することはできないと、彼女は語っているのである。現代の感覚からするならば奇異の念を抱かせるようなものではあるかもしれないが、この言葉は、『存在と時間』における「良心の呼び声」に関する議論を追い続けている私たちに対しても、小からぬ示唆を与えてくれるものであると言えるのではないか。ロンドンの男性をめぐるマザー・テレサのエピソードは私たちに、「内なる呼び声」を聞くということが人間にもたらす変容について、極限的な、しかし、きわめて重要な事例の一つを示しているように思われるのである。
 
 
 
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 祈るとは「内なる呼び声」を聞くことに他ならないという論点を確認した上で、もう一つの彼女の言葉に耳を傾けてみることとしたい。
 
 
 「すべては、祈りから始まります。愛する心を神にお願いすることなしには、私たちは愛する心を持つことはできないし、人を愛することができるとしても、人に与えることのできる愛は、ほんのちょっぴりでしかないでしょう。」
 
 
 立派なことをしたい、何かを成し遂げたいという思いを持つことが人間に善をもたらすことも、もちろんありうるだろう。それでも、人間として本当に大切なことは、究極的には何かもっと小さなことを、誰にでもできそうで、誰にもできないことを行うことのうちにこそあるのではないか。
 
 
 存在と時間』においては、「最も固有な存在可能」という概念が語られている。それぞれの人間には、その人にしか行うことのできない何らかの務めが存在している。けれどもそれは、世の中から知られるとか、大きなことを成し遂げるといったことよりも、まずもって、自分にとって大切な人々のことを気づかうとか、知らない間に人から支えられていたことに気付いて涙を流すとか、そういったことのうちにこそ存在しているのではないか。
 
 
 おそらくは哲学の営みにしても、事情は同じなのではあるまいか。重要なのは、自分自身が生きてゆく上で気づかい、大切にしてゆくべきことについて、「内なる呼び声」を聴き取ろうと努め続け、自分自身の心に問い尋ねつつ、じっくりと時間をかけて考え続けて、自分にとって大事な人たちとそれを分かち合うことなのではないだろうか。もしもそうしたことが許されているのだとしたら、たとえ種々の悩みは尽きないとしても、その人の人生は十分に幸福なものであると言うこともできるのかもしれない。以上、「内なる呼び声」を聞くということについて考えてみたが、そろそろ『存在と時間』の議論の方に戻ってゆくべき時のようである。呼び声の性格を見定めるという作業についてはこれで終えたということにして、次回の記事では、これまでの議論の総括を行っておくこととしたい。
 
 
 
 
[前回と今回の記事は先月の半ばごろ、心身ともに少し弱っていた時期に書きました。次回からは『存在と時間』の方に本格的に戻ってゆくことにしますが、5月にマザー・テレサの言葉を通して学んだことは、今後も忘れないようにしなければと思わされています。読んでくださっている方の一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]