「無意味からの出口は、わたしの意識を超える他者である、あなたのうちにあるのではないか。」
わたしが死にたいというほど苦しんでいる時、救いの唯一の可能性は、その痛みをあなたに投げかけることにうちにあるのではないだろうか。
あなたは、わたしの意識にとっての超越を意味します。だからこそ、わたしにはあなたが何を言うのかを予測することが決してできない。あなたの言葉は、わたしには知りえない、未知の場所から到来します。
現代という時代はあらゆる聖性を内在性のうちに閉塞させようとする傾向を持っていますが、あなたという場所は、その聖性を失うことが決してありません。あなたという超越は、データベース化をどこまでも逃れる、「天使さえも足を踏み入れるのを恐れるところ」でありつづけるでしょう。
死にたい、もう生きることはできないとわたしが叫ぶとき、その叫びは、おそらくわたし自身にもとどめがたい痛切さによって、あなたのもとへと向けられざるを得ないのではないか。叫びを聞きとるあなたの存在なしには、わたしは体も魂ももろともに亡びざるをえないのではないだろうか……。
以上のようなしかたで問いをはじめて提起したのは、言うまでもなくエマニュエル・レヴィナスです。彼の問いかけは、おそらく、今後の人間が長い時間をかけて深めてゆくべき射程を含みこんでいるように思われます。
わたし自身の生への答えは、わたし自身のうちにはないということ。意識は、それが意識であるかぎりにおいて、すでに自らのうちには同化されえないような他者を求めずにはいられないということ。
以上のように考えてみると、哲学がこの他者とい問題圏を本格的に取りあげはじめてから、実はまだそれほど長い時間が流れているわけではありません。筆者は、この「他者の発見」は、前世紀の哲学が達成した成果のうちでも最も大きなものの一つなのではないかと考えています。