イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

実存の意味を問わねばならない

 
 気晴らしという行為について、もう少し掘り下げて考えてみることにします。
 
 
 気晴らしという行為の本質:
 気晴らしとは、実存の一時的な忘却である。
 
 
 すでに述べたように、気晴らしによって面倒な物事のすべてを忘れることは、人間にこの上ないリフレッシュの効果をもたらしてくれます。「ペンパイナッポーアッポーペン」とつぶやいたところで人生の運行は変わりませんが、つぶやく人の気分は大きく変わります。
 
 
 しかし、言うまでもなく、「ペンパイナッポーアッポーペン」は実存の問いに対する最終的な解答にはなりません。ひょっとすると、「ペンパイナッポーアッポーペン」や「コマネチ」を人生の結論にするという裏技もなくはないのかもしれませんが、それはそれで、多大な覚悟を必要とするということは間違いなさそうです。
 
 
 実存するという務めからは、誰も逃れることはできません。わたしはなぜこの世に生まれ、何のために生きているのか。
 
 
 この問いに対して気晴らしによって答えることができない以上、人生には、気晴らしとは別の何かが必要であるということにならざるをえないのではないか。この点については、次回以降に考えてみることにして、今回は、上の問いをもう少し掘り下げておくことにします。
 
 
 
気晴らし 実存 ペンパイナッポーアッポーペン コマネチ マンガ 西田幾多郎 フッサール
 
 
 
 わたしはなぜこの世に生まれ、何のために生きているのか。世の中では、マンガとアニメ以外の場面でこの言葉を口に出した場合には、周囲から煙たがられることになるのは間違いないとはいえ、少なくとも哲学徒たちは、この問いに真正面から向き合うことを求められているのではないか。というのも、先人たちは、すでに二千年以上にもわたってこの問いに取り組み続けてきたからです。
 
 
 ライトにわかりやすくしなきゃ売れないよとか、今の読書層は重すぎること言ったらついてこないよとか、そういうのはあるのかもしらんね。でもぶっちゃけ、そういうのとかほんとクソですよ!
 
 
 いや、僕自身もクソはクソなんではあるが、申し訳ないが、ここでは言いたいこと言わせてくれ。哲学は、生きてる意味とか死ぬ意味とか、ほんとに真剣に考えなきゃいかん。答えが出るとか出ないとか、そういうことではないんよ。答えが出ようと出なかろうと、考え続けねばならんのではないか。真面目に書いてるだけじゃ本が出ないっていうんなら、ちくしょう、ここで永久にうだつの上がらん低アクセスブログを書き続けてやる……。
 
 
 「ねばならない」という表現は、この世では好感度を著しく下げるNGワードですが、西田幾多郎フッサールをはじめ、先人たちのうちには、この表現を多用していた人々が少なくありません。その意味からすると、哲学者という種族は、「ねばならない」という宿命的な低アクセスの道を選び取った人々の群れであるといえそうです。