イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

二つ折れの与え、あるいは、人間になるということ

 
 ふたたび、純形而上学的な方面に話を戻すこととしたい。
 
 
 論点:
 わたしが他の誰でもないこのわたしであるという事実は、二つ折れの与えという出来事として生起する。
 
 
 すでに論じた二つの与えについて、思い起こしてみる。
 
 
 1.意識の与え、あるいは、思考するわたしの与え。(絶対確実性)
 2.個人の与え、あるいは、現実の中で生きる「この人間」の与え。(根源的事実性)
 
 
 ここで言いたいのは、1と2とは理念的には区別できるにも関わらず、現実的にはひとつながりのものとして与えられるということである。そのことを、二つでありながら一つであるような与えとして、ここでは「二つ折れの与え」と表現することとしたいのである。
 
 
 「二つ折れ」という表現そのものは、存在と存在者の間の存在論的差異について考え続けた先人である、マルティン・ハイデッガーに負っている。ともあれ、このあたりの議論は、たとえば近世哲学でいうとライプニッツの「予定調和」なんかとも深くリンクする重要論点であることは間違いないように思われるが……。
 
 
 本題に戻る。わたしは「考えるわたし」、すなわち意識としてのわたしであると同時に、他の誰でもない「この人間」としてのわたしでもある。わたしの二重帰属というこの形而上学的事実は、わたしなる存在が何らかの一なる「単純実体」としてではなく、常に宿命的な二つ折れのうちで与えられる「複合実体」であるという不可避的な構造(cf.トマス・アクィナス)を告げ知らせているように思われるのである。
 
 
 
二つ折れの与え 絶対確実性 根源的事実性 マルティン・ハイデッガー ライプニッツ トマス・アクィナス 反出生主義
 
  
 
 われわれ人間には、二つ折れの与えが二つ折れであることについて、どうすることもできない。そしておそらくは、二つ折れの与えという出来事を二つ折れそのものとしてそのまま引き受けることこそが、人間がその言葉の十全な意味において「人間になる」ということなのであろう。
 
 
 自然的人間は、自分自身が思考するコギトであることを知らない。彼あるいは彼女は幸福ではあるが、その幸福は彼あるいは彼女が、動物であることと人間であることのあの不分明領域を漂っていることに由来するものだ。幼年時代の幸福とはそのようなものであるが、幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていたその時期が終わる時にこそ、人間としての生が本当の意味で始まる。
 
 
 その一方で、あまりにも早く「考えるわたし」であることを課せられた人間は、自分自身が他の誰でもない「この人間」であるということの重みを引き受けることができない(ここに、反出生主義なるものが生まれてくるそもそもの起源がある)。しかし、思考することの始まりが、どうして苦しみに満ちたものでないことがあろうか。彼あるいは彼女は、痛まねばならないのだ。人間であるということは、苦しむということだから。
 
 
 若者は、自分は人間になることなんて望んでいない、そんなことはごめんだと嘆く。教師に求められているのはおそらく、彼らに対して、人間になることの苦しみから逃げてはならないと嗜め続けることなのであろう。厄介ではあるが、これ以上ないというくらいにやりがいのある仕事である。