イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「存在する」という語の使用をめぐって

 
 ここで少しだけ立ち止まって、改めて考えてみる。
 
 
 レヴィナスが他者について「存在するとは別の仕方で」という表現を用いたのは、なぜだったのか。すでに見たように、そこには他者の超越というモメントにおけるその超越性を、決して見落としてはならないと彼が考えたという事情が関係している。
 
 
 「存在するとは別の仕方で」あるいは「存在することの彼方」という表現は、何度も繰り返すようで恐縮ではあるが、破格語法である。破格語法を用いなければならない時とは、そうでもしなければ見過ごしてしまいかねないような事態を、何としてでも強調せねばならない時であろう。
 
 
 筆者のように、レヴィナス哲学の成果を踏まえた上で他者の意識について「存在する」という語を再び用いる立場に立つ場合には、今述べたような事情を忘れないでおく必要がある。つまり、なぜレヴィナスが、使うことを避けるという極端な語り口に訴えることまでした「存在する」という語をもう一度用いなければならないのか、その必然性についてはよくよく考えておく必要があるのだ。
 
 
 それはやはり、これも一部繰り返しにはなってしまうが、われわれには、存在するという語でもって指し示される事態は、まさしく「存在する」あるいは「ある」と言い表すほかないように思われるからだ。「ある」は、根源的である。「ある」は、いわばその外側が存在しないとしか言いえないほどまでに根源的なのではあるまいか。
 
 
 
レヴィナス 他者 存在するとは別の仕方で 哲学 超越
 
 
 
 何か、または誰か、あるいはある事態を、「存在するとは別の仕方で」と言い表すとする。その場合、そうして言い表される何ものかについては、「存在する」という言葉は当てはまらないと考えられているわけである。
 
 
 しかし、「存在する」という言葉が当てはまらない何ものかが「ある」というのは、まさしく背理ではないのか。「あるものの彼方」が「ある」のだとすれば、その彼方とは、やはり何らかの意味で「ある」のでなければならないのではなかろうか。
 
 
 「存在するとは別の仕方で」という表現を用いて語っていた当のレヴィナス自身、「存在するとは別の仕方で」が、それを語ろうとすれば常に「存在する」という言葉の引力圏のうちに絡めとられてしまうという逆説について非常に自覚的であった(いわば「存在するとは別の仕方で」の、「別の仕方で存在する」への転落である)。
 
 
 しかし、ここで筆者が言いたいことは、そうした逆説とは位相を異にする。筆者が言いたいのは、「存在するとは別の仕方で」を人間の言語が「存在」のうちに貶めてしまうということではなくて、「存在するとは別の仕方で」がいかに「存在するとは別の仕方で」として語られようとも、そこで言い表されている何ものかは、やはり言語を越えたところで現に「存在」してしまっているのではないかということなのだ。この辺り、まさしく哲学者以外には何の興味も湧かない極度にマニアックな議論であることは間違いなさそうだが、筆者が思うに、哲学の議論において最も重要なものの一つがここにあるのではないかと思われるので、ここで改めて論じておきたい次第なのである。