イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

生と存在の一致

 
 論点:
 この世界の中で生きる一人の人間として、わたしは存在する。
 
 
 わたしは思考する意識であるのと同時に、他の誰でもない一人の「この人間」でもある。このブログにおいても、かつてこのモメントを「二つ折れの与え」として考えたことがあるけれども(『わたしとは何か』参照)、ここではそのわたしなるものについて、存在の問いを問うという観点から改めて考えてみることにしたい。
 
 
 さて、わたしなる存在についておそらく最も重要なのは、わたしは生きているという根源的な事実なのではないかと思われる。
 
 
 わたしは生きている。生きているわたしは単なるものや物体とは異なっているのであって、わたしが死ぬ時には、かつてわたしの身体であったものが、その時にこそ単なるものや物体に戻ってゆくことであろう。
 
 
 しかし、今のこの瞬間には、わたしは生きている。わたしにとって「歩いている」や「食べている」は、ある時には真であり別の時にはそうでないような付帯的な述語に過ぎないけれども、「生きている」はいついかなる時にもわたしから取り去ることができない。この意味では、「わたしは生きている」はほとんどトートロジー(恒真文)とも言える言明なのであって、わたしが死ぬ時とは「わたしは死んでいる」とついにわたしが発語する瞬間ではなくて、むしろ、もはやわたしが何も語ることがなくなる瞬間なのである。
 
 
 
生 ジョルジョ・アガンベン ホモ・サケル ハイデッガー ナチス ドイツ 王国と栄光 ゲシュテル 哲学 オイコノミア 統治 存在
 
 
 
 わたしに関する根源的事実:
 わたしなる存在に関する限り、生きることと存在することとは完全に一致する。
 
 
 ジョルジョ・アガンベンは『ホモ・サケル』から始まる一連の著作において、「剥き出しの生」という次元から政治哲学のカテゴリーを根源的に考え直すことを試みている。このことはおそらく、哲学という営み全体から見ても非常に重要なことなのであって、これまで政治哲学と呼ばれてきた領野の全体を、存在の問題圏から見通すことが可能になりつつあるというのは決して小さなことではない。
 
 
 アガンベン自身は自身の枠組みがハイデッガーのそれとは重要な部分において異なるということを常に断り続けているけれども、同時に、それぞれの著作の核心部分においては常にハイデッガーのテーゼと自身の主張を重ね合わせてみることを忘れていない。たとえば、『ホモ・サケル』においてはナチス時代のドイツにおける生権力の作動様態との関わりの中で『存在と時間』における生の事実性という論点が再解釈され、『王国と栄光』においては古代から現代にまで引き継がれてきた「統治(オイコノミア)」のパラダイムが、後期ハイデッガーにおいては「総駆り立て体制(ゲシュテル)」として名指されているという大胆な言明がなされる、等々である。
 
 
 哲学が、ますます「ただ生きている」という根源的な事実に即して考えるようになってきている。生きているというこの事実はそれ以上問う必要のない、当たり前のことではなくて、むしろ、このことをこそ問わなければならないといったような根源事象なのだ。われわれは、生きることと存在することとが一致するこの根源的なモメントについて、さらに突き詰めて考えてみなければならない。