イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

生きることを取り戻す:『存在と時間』序論の読解を終えるにあたって

 
 私たちは、『存在と時間』序論の核となる論理をたどり終えた。これまでの歩みを要約しておこう。
 
存在と時間』序論の論理:
 
①「そもそも存在するとは、何を意味するのか。」哲学は、この問いをあらためて設定するべきである(存在の意味への問い)。
 
②ところで、現存在、すなわち人間は、存在の問いを問うにあたって、比類のない地位を占めている。人間は存在についての理解(存在了解)を持つとともに、自分自身、自らの存在に関わる存在者として実存している(現存在の存在的-存在論的優位)。
 
③従って、存在の意味への問いを問うためにも、まずは人間という存在者のあり方を、すべての先入見を捨て去りつつ、徹底的に問い直さなければならない(基礎的存在論としての、現存在の実存論的分析論)。
 
 
 これから本論に入るにあたって心にとどめておきたいことは、『存在と時間』を読むことは私たちにとって、私たち自身の生を根底から捉え直し、取り戻す試みでもあるという点である。
 
 
 ハイデッガーにとって、生きることの核心にたどり着きたいという衝迫は、『存在と時間』を書く以前から、彼自身の哲学の原動力となって探求を導いていた。この本を書く以前の時期には、彼は自身の探求を「事実的生の解釈学」や「生の現象学」といった名称で呼んでいたのである。存在問題に軸を定めるために、『存在と時間』には「生」や「生きること」といった表現は前面に出てくることがなくなったとはいえ、このモチーフは、この本のうちでも変わることなく引き継がれていると言ってよい。
 
 
 私たち自身にとってさえも隠されてしまっている生の本当の姿に、たどり着くこと。生きることそれ自体が生きることを覆い隠してしまうという運命的な傾向に抗って、私たちの生をもう一度取り戻すこと。学術書としての『存在と時間』は、本当はそのような課題を見据えながら書かれた本でもある。この本のうちに刻みこまれているのは、隠された豊かさと、身を切るような切実さとを伴った、私たち自身の生の姿にほかならない。
 
 
 
 ハイデッガー 存在と時間 現象学 解釈学 ある 存在の問い 現存在
 
 
 
 「存在の問い」というと、哲学の営みに関心がそれほどない人には何か理屈じみた、無味乾燥な問いといったように響くかもしれない。
 
 
 けれども、存在の問い、「ある」の問いはハイデッガーも言うように、最も原理的な問いであるのと同時に、最も具体的な問いでもある。何よりもこの問いは、私たち自身が命あるものとして生きているという根本の事実に、まっすぐにつながっている。存在の問いを問うことは、私たち自身の日常を問うことであるのと同時に、生きることを、死ぬという極限の可能性を見据えながら生きることの意味を問うことをも意味しているのだ。
 
 
 哲学の歴史は、外の世界の時の流れに比べれば、非常にゆっくりとしか進まない。さまざまな本が目まぐるしい勢いで書かれてゆくけれども、私たちが問うべき問いは、数十年の時が経ったくらいでは変わらないという場合がほとんどである。
 
 
 今からおよそ百年前に書かれた『存在と時間』は、哲学の歴史のスケールから見るならば、まだ昨日書かれたばかりであると言ってもよいくらいに「新しい」本である。この本で論じられた主題は痛切なほどに、今という時代を生きている私たち自身の生の姿を照らし出している。生が失われてゆくことそれ自体に抗って、生きることを取り戻すこと。『存在と時間』において問題となっているのはそのような試みでもあることを念頭に置きつつ、これから、この本の本論の内容に入ってゆくこととしたい。