イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

原初的な承認について

 
 論点:
 人間は互いに承認しあうことによって、自分自身が世界に存在することの根拠と赦しを与えあっている。
 
 
 わたしにとって、他者たちの意識の存在は絶対的な明証とともに証明できるような類のものではない(前回の記事参照)。けれども、言うまでもなく、わたしは日々「他者たちの意識は存在している」という想定のもとに、人間としての生を営んでいる。
 
 
 この想定はまさしく人間を人間たらしめているものであるため、これなしでは人間は生きてゆくことができないほどのものである。そして、人間はこの「他者の存在の想定」の次元を前提とした上で他者から承認されることで、はじめて世界のうちに存在することの赦しを与えられると言えるのではないか。
 
 
 最も根源的な承認の場面を考えてみる。わたしとあなたは共に、人間たちが形づくっている公共世界のうちでは居場所を得ることができず、いわば追放されるようにしてさまよいながら出会う。
 
 
 わたしもあなたもこの世に居場所を持たないという意味では、死に至る前のぎりぎりの状態にある(人間を死に至らせるのは、飢えと病だけではない)。わたしとあなたは、死ぬ寸前のわたしがあなたの存在を認め、同じく死ぬ寸前のあなたがわたしを認めることによって、互いの存在を世界のうちに引き留めようとする。これが、根源的あるいは原初的な承認の筋立てである。
 
 
 
絶対的明証 公共世界 ヘーゲル 生きるべきか死ぬべきか
 
 
 
 哲学の歴史のうちでは、ヘーゲルがこの承認という契機を自身の哲学のうちに組み入れて思惟した先駆者の一人であった。ヘーゲルには、主観のうちにあるものが主観の枠を超えて絶対的なものへと引き揚げられてゆく過程を思惟する必要があったのであるが、彼の思索は、他者の問題について考えようとする哲学者にとっては、今日においても教えるところの極めて多いものなのではないかと思われる。
 
 
 根源的な承認の場面に戻るならば、承認とは本来、「生きるべきか死ぬべきか  To be or not to be」が問われる極限的な次元において結ばれる関係であると言えるのではないだろうか。芸術家たちは、このことを直観している。だからこそ彼らの作品は、人間たちを出来合いの承認や、その承認の網の目からなる公共世界から引き離し、人間の実存を、いわば承認のゼロ度において仮借なく問うことを自らに課しているのである。
 
 
 哲学者が公共世界と結ぶ関係が単純なものではありえないのも、ここに起因している。哲学者はすでに出来上がった公共世界の一員として、多少なりとも気の利いた提案なり立言なりを行うというのではなく、いわば公共世界の内と外とに同時に属しながら、公共世界を公共世界として成り立たせている根拠を問うのでなければならない。彼あるいは彼女は、社会状態を決して知ることのない、かの「大イナル自然人」としての生を生きるのでなければならないのであって、哲学者が公共世界に本当の意味で何らかの貢献をなしうるのだとしたら、それは数多くの論者たちから歓迎される何らかの奉仕を行うことによってではなく、公共世界から締め出されたものを思惟によって言葉にもたらすという、哲学者本来の呪われた務めを果たす時のみなのではないかと思われる。