イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

言語活動を事実的な与えのうちで考えるという、実存論的な課題について

 
 論点:
 認識の主体であるわたしを超える他者の実存は、その他者の表現を通して明かされる。
 
 
 他者は行為によって、また、その他者が芸術家である場合には、色や音や何らかの形態を伴う作品によって自らを表現することもあるだろう。しかし、人間が人間である限り、最も特権的かつ根源的な表現のエレメントとは、やはり言葉に他ならないのではないだろうか。
 
 
 事実的な与えなるものがもしもありうるのだとすれば、他者の言葉を聞くというのは、文字通りわたしの想像を超える経験になるはずである。
 
 
 それは、わたしに聞こえてくる声の響きを通して、目に見えないはずのものを見、耳が聞くはずのないものを聞くような、原理的に未知なるものの経験である。経験されないはずの超絶が文節された音の響きのうちに表現としておのれを現し、現れないはずのものが逆説的に現れるものの圏域に自身のしるしを贈ってくるようなこの出来事こそ、哲学が言葉の経験の本質を考える際に見落としてはならないモメントなのではないか。
 
 
 ただし、この出来事のうちにはらまれている超絶への関わりは、言葉がわたしによって聞き取られるまさにその瞬間から、わたしにとって隠れたものとなってしまう可能性にさらされてもいる。超絶としての他者の存在は、それが超絶であるがゆえに常におのれのもとに身を退け、おのれが存在していることの痕跡すら残さずに忘れ去られてしまうかもしれない。おそらくは、言葉を、それを聞くものに贈られるしるしとして聞き取ろうとするような敬虔だけが、超絶する他者を超絶として待ち望みつつ、その言葉に本当の意味で耳を傾けることができるのではないだろうか。
 
 
 
超絶 エマニュエル・レヴィナス 恩寵 実存論
 
 
 
 他者を待ち望むとは言っても、経験のうちで、待ち望んでいるこの他者が言葉の厳密な意味において「到来する」ことは決してない。それにも関わらず、言葉の経験とはある意味で、この到来しないはずの他者が不可能なはずの「他者自身」をわたしに与える経験でもあると言えるのではないか。
 
 
 筆者の哲学はエマニュエル・レヴィナスに多くのものを負っているけれども、おそらく、彼の思考とのかすかな、しかし決定的な力点の置き方の違いが表れてくる局面の一つはこの地点である。与えられるはずのないものが事実的に与えられるこの逆説、「恩寵 gratia」と呼ぶよりほかに言い表すことのできないようなこの超絶との関わりの可能性(もはや律法ではなく恵みが問題となるこの可能性については、レヴィナスは一貫して語ることがなかったように思われる)を、哲学の営みは言葉のうちにもたらすように、言葉の働きそのものによって促されているのではないだろうか。
 
 
 超絶が超絶であり続けながら、言葉のうちに超絶それ自身が事実的に姿を現すようなこの場面にこそ、おそらくは、言語活動が人間にとってかくも根源的なものであることの秘密があるのではないか。今年ももう終わりに近づいているので、次回はいったん哲学の探求を中断して今年の歩みを振り返ることにする予定ではあるけれども、この論点については来年に引き継いで考え続けることとしたい。