イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

一つの時代が終わるとき

 
 「曖昧さ」について論じている『存在と時間』第37節にハイデッガーは、非常に印象深い一節を書きつけている。その箇所を、ここに引用してみる。
 
 
 「ほんとうにあらたに創造されたものが、その積極的な可能性において自由になるのは、覆いかくす空談が効力を失い、『共通の』関心が死に絶える、ようやくそのときになってからなのである。」(『存在と時間』第37節より)
 
 
 〈ひと〉は「空談」と「好奇心」の機構に基づいて、さまざまなことを語る。実に色々な事柄が取り上げられ、さかんに論じられるけれども、〈ひと〉が本当に気づかっているのは他の人々が今、一体何について論じあっているのかを知ることであって、事柄それ自身のあり方を真正な仕方で知ることではない。一つの時代はそうやって、〈ひと〉のあり方を気づかう〈ひと〉の果てしのないおしゃべりと共に、過ぎ去ってゆく。
 
 
 しかし、そうやって一つの時代が終わろうとする時に、驚くべきことが起こる。その出来事は目立たない仕方で静かに起こるけれども、それでも見る人から見るならば、見逃しようのないものである。すなわち、次の時代がやって来るに際して、残るべきものだけが残るという出来事がそれである。
 
 
 未来の人々は、自分たちよりも前の時代に〈ひと〉の共通の関心が何であったかということには、ほとんど気にも留めないことだろう。それというのも、人間というのは、こと自分自身が生きている当のその時代以外についてならば、〈ひと〉が言うことなど当てにならないということをよく知っているからである。未来の人々はこうして、もはや何物にもとらわれることなく、前の時代の人々が残したものの探査に取りかかる。
 
 
 彼らはおそらく、たえず次のような印象を抱くに違いない。一体なぜ私たちの前の時代の人々は、こんなものに夢中になったり、あんなものをめぐって大騒ぎしたりしていたのだろう。こちらにあるこれの方がよっぽど大事な問題について考えているし、後に残すべきものをより多く含んでいるというのに。こうして、新しくやって来た時代は、前の時代から古典と呼ばれる書物や作品をいくつか持ち出して、後はそっとしておく。私たちが日々触れているさまざまな人類の共通財産は、そうした過程を経ることによって私たちの手元にまで渡ってきたものであると言えるだろう。
 
 
 
存在と時間 ハイデッガー 空談 好奇心 ショーペンハウアー 幸福について
 
 
 
 ショーペンハウアーが、人生もそろそろ終わりに近づいたという時期に起こるという出来事について、『幸福について』の中で書きとめている。
 
 
 彼によると、仕事や家庭作りに関しては大方のところは終えたという老年のころに差しかかった時に、私たちは、人生というものが今やくっきりとした形をとって、私たち自身の目の前に差し出されるのを見るのだそうである。そうか、人生とはこれであったのか。私たちが生きてきた一度限りの人生とは、このような手触りと広がりを持つもので(なんと愛しいことか)、このようにして終わってゆくものであるのか(なぜかは分からないが、不思議と納得される)。
 
 
 ショーペンハウアーが言うには、その際に私たちには、私たちの周囲の人々が、そして、私たち自身が何を大切にし、何のために生きてきたのかが示されてしまうのだそうである。それまでは生きることに精一杯で、私たちは「わたしとは一体誰なのだろうか」という問いについては、ほんの時おり考えるというくらいだった。その問いの答えが、時が来ると、まるで神秘の啓示ででもあるかのようにして目の前に現れるというのである。おそらく、ショーペンハウアーはその出来事を実際に体験した上で、このことを書いたのだろう。彼のまなざしは、新しい次の時代がやって来るに際して、一つの時代が、彼自身が生きたところの時代が過ぎ去ってゆく、まさにその瞬間を捉えたのである。
 
 
 話を元に戻すと、上に述べたような事情があるからこそ、もし人が「本当に新たに創造されたもの」に出会いたいと思うならば、その時には逆説的なことに、古典と呼ばれる本を手にとる以上の近道はないと言えるのである。それというのも、古典とはもはや〈ひと〉の関心から自由になって、読む人を事柄そのものに出会わせる役割を担うようになった、純粋状態の言葉以外の何物でもないからだ。古典のうちには、どのような変転をくぐり抜けたとしても消え去ることのない出来事の永遠と、かつての人間が到達することのできた叡智とが書きとめられている。未来の時代の人々は、おそらくは私たち自身が生きているこの時代からも、いくつかの書物と作品を持ち出してゆくことだろう。