イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

人間の存在はいまや、「自己への配慮」として露呈される:『存在と時間』の根本概念「気づかい Sorge」

 
 これまで不安の現象について見てきたところから、ハイデッガーは、現存在であるところの人間の存在を「気づかい」として規定することへと向かってゆく。その道程を、ここで簡潔に再構成しておくことにしよう。
 
 
 ① 人間は、不安からは逃れることができない。忘れ去ってしまおうと見ないふりを決め込もうとしても、不安は執拗に人間を脅かし続け、自らの〈現〉の不気味さに直面させずにはおかないのである。気分の現象は、人間が避けようもなく自らの〈現〉(=自分自身の「状況」)にさらされているという「被投性」のモメントを開示せずにはおかないものであるけれども、こと不安の気分においては、このことがまさしく際立ってくる。不安とはその本質からして、「存在することのうちへと投げ込まれていることの不安」なのである。
 
 
 ② 不安においては、日常性を形づくっていた道具的存在者のネットワークが、無意義性のうちに沈みこんでしまう。「有意義性=役に立つこと」の次元が機能停止の状態に陥り、人間は、自分自身の「剥き出しの生」の次元に直面させられることになるわけであるが、不安の気分はそのことによって、人間存在の日常の姿をいわば逆向きに照射することになるとも言えるのではないか。日常性における人間は、さまざまな人や物が形づくるネットワーク(「仕事」や「作業」の世界)のうちに没入している。不安は、もはやこうした没入の状態を続けられなくなるという極限の状態において、かえって「仕事のうちに没入している=特定の存在者のもとで、『頽落』しつつ世界内存在している」人間の姿を浮き彫りにせずにはおかないのである。
 
 
 ③ 最後に、「自由のめまい」であるところの不安は、人間存在が自らの可能性に絶えず関わりながら存在しているという、根源的な事実をあらわにせずにはおかない。人間存在は、実存する。不安を感じている当のその人には明確に意識されていないとしても、不安の気分において彼あるいは彼女に襲いかかるのは、その人自身の可能性の全重量にほかならないのだ。不安の現象はかくして、自分自身という「最も不気味なもの」に常にさらされている、人間存在の根源のあり方を露呈させずにはおかないものであると言えそうである。
 
 
 
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 以上見てきたところから、人間の存在そのものを特徴づけるところの実存論的-存在論的現象である「気づかい Sorge」は、三つの根本規定によって構造化されていることが明らかになった。上で提示したものとは順序が異なるが、「気づかい」を構成する三つの規定とは以下に見るように「実存」と「事実性」、そして「頽落」である。
 
 
 現存在の存在として露呈されることになった「気づかい」の、三つの根本規定:
① 現存在であるところの人間は自分自身の可能性に関わる存在として、いわば「自らに先立って」存在している(「実存」)。
② 人間はしかし、まさしく自らが存在することを避けられないところの存在者として、自らの〈現〉へと絶えず引き渡されている(「事実性」あるいは「被投性」)。
③ そのようなものとして、人間は世界内の存在者のネットワークのうちに没入しつつ、「存在者のもとで」存在している。実存の非本来性は、この「もとで」のうちへの自己喪失として定義づけられるが、本来的であるにせよ非本来的であるにせよ、人間の実存が、常にすでに何らかの「もとで」において世界内存在していることによって成り立つことには、変わりがないと言える(二義性と共に提示される、現存在の「頽落」)。
 
 
 現存在の存在を「気づかい」として描き出すというハイデッガーの企図において、主導的な役割を果たしているのは①の「実存」である。人間は、自らの存在可能について絶えず気づかいながら、世界のうちに存在している。その意味では、人間の存在はその根源において、彼あるいは彼女自身の「自由」に向かわずにはおかないものであると言えるのであるが、この「自己への配慮」としての気づかいは残りの根本規定である②と③にも必然的に巻き込まれざるをえないから、常にすでに「絶えざる骨折りとしての気づかい」でもある。つまり、生とはその必然において解放への絶えざる努力であると同時に、宿命的な労苦と挫折でもあらざるをえないのである(実存論的分析はかくして、人間自身にとって馴染みのものであるところの生の両義性を、存在論的な仕方で解明したということになる)。
 
 
 ただし、実存の本来性の圏域へと進み入っていない分析の今の段階においては、「気づかい」としての人間の根源的な姿は、まだ十全な仕方では露呈されないままにとどまらざるをえない。根源的な姿は、実存論的分析が「良心の呼び声」の現象に突き当たった時にはじめて、それとして開示されることになるだろう。呼び声が、内なる呼び声として人間自身の実存を呼び醒まし、自らの正体を「気づかいの呼び声」として提示する時になってはじめて、この「気づかい」なる概念の真の射程が示される。『存在と時間』の思考の道程をたどる私たちの読解も、本全体の大詰めに向かって着実に歩を進めつつあるようである。