イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

2020-01-01から1年間の記事一覧

言葉とまなざし、イデアと想起

本質の真理を問うことは、ある意味で、ものや出来事をふたたび名づけることであると言えるのではないか。 たとえば、美とは何か。私たちは様々なものや事柄を美しいと呼んでいるけれども、その「美しい」という言葉は何を意味しているのだろうか。この問いは…

流動する意味

「ヤバい」という語の二つの意味(再提示): ①非常に危険である。 ②死ぬほど素晴らしい。 ①の意味から②の意味が生まれてきた次第を考えてみると、そこには、「①の内包的意味が、使用されつつドリフトしてゆく中で②を生み出してゆくプロセス」があったであろ…

俗語の変遷から意味の内包を考える

意味の内包について考えるために、俗語表現から一つの例をとってみることにしたい。「ヤバい」という語は近年、比較的新しい意味が加えられることによって、以下の二つの意味を持つようになっている。 ①非常に危険である。 ②死ぬほど素晴らしい。 ①について…

内包の存在と、その捉えがたさについて

論点: 言葉の意味の内包は、その存在を疑うことはできないが、きわめて捉えがたい。 前回の例を再び取り上げるなら、「人間である」という語の意味は、命題関数「xは人間である」について、どのような個体がこの命題を真とするかを知っているかどうかという…

外延と内包

論点: 本質の真理を問うことは、存在者を、その自明性から解放しようと努めることである。 命題の真理の次元にとどまる限りにおいては、人間は、どこかで世界の無意味性という問題に突き当たらざるをえない。ここにおいては、どんな命題に対しても「だから…

具体的なものの必要性、あるいは、勇敢さという徳について

三つの課題(再提示): ①道具の考察。 ②道具の一種としての、階段の考察。 ③階段の一類型としての、エスカレーターの考察。 ここ半月ほどの分析を通して言える二つ目のこととは、具体的なもののもとにとどまる必要性である。 たとえば、道具といっても「道…

これまでの探求の振り返り、あるいは、第一哲学に至る必然性について

これまでの歩みを振り返ってみる。 「エスカレーターとは何か」という最初の問いに対する答えは「エスカレーターとは、機械によって動かされる階段である」であったため、われわれはさらに「階段とは何か」と問い、これを探求した。 その結果、出てきた答え…

道具としての階段

論点: 通常の場合には意識されることはないという性質は、階段という存在者にとって本質的なものなのではないだろうか。 すでに一度触れたように、私たちは毎日のように階段を利用しているけれども、「ああ、僕は/わたしは今、階段を利用しているなあ」とは…

剥き出しの生という問題圏をめぐって

論点: 哲学を探求するにあたっては、例外状態に対する鋭敏な眼差しが必要とされるのではあるまいか。 スカイツリーの例に即して、もう少し考えてみることにしよう。ソラカラちゃんやショッピングモール、それに何よりも展望台など、東京スカイツリーにはめ…

非常階段と緊急事態

階段には、前回までとはまた別の二類型を区別することもできるように思われる。 ①通常の階段。 ②非常用の階段。 数でいえば恐らくは圧倒的に少ないであろうが、②の階段というのも確かに存在する。たとえば、かの東京スカイツリー(雰囲気だけでも味わいたい…

しないでいることの困難さについて

階段の二類型(再提示): ①消極的階段、あるいは、自然の中の階段。 ②積極的階段、あるいは、建築における階段。 ②の「積極的階段」について、もう少し考えてみることにしたい。 すでに書いたように、階段を発明したことによって、人間が住空間を利用する際…

階段の二類型と、後期ハイデッガー哲学について

ところで、階段には以下の二つの類型を区別することができるのではないかと思われる。 階段の二類型: ①消極的階段。 ②積極的階段。 ①は急な斜面やちょっとした高低差のある場所に設けられる階段であり、消極的というのは、「階段を積極的に作りたいわけでは…

鉄道の駅に関する考察

論点: 私たちはふだん、階段の存在を主題的に意識することはない。 筆者は今回の問い「階段とは何か」を問うまでは、これまで階段のことを考えたり、ましてや考察するということはほとんどなかった。この点、おそらくは読者の方々も、多かれ少なかれ事情は…

ロングセラーは信頼できる

論点: 階段は、利便性と効率性においても優れた移動手段である。 階段についての考察を続けよう。同じ高いところに移動するのに、ハシゴと階段のどちらが楽であるかといえば、後者の方であるのは明らかである。階段は足だけで上り下りすることができるけれ…

階段の安全性と、モスバーガーをめぐる考察

筆者も酔狂は嫌いではないけれども、階段とは何かという問いを問うことは、今回の機会を除いては、おそらくはやってこないのではないかと思う。なるべく哲学的に実り豊かなものとなるように心がけるので、興味のある奇特な方はお付き合いいただければ幸いで…

もう一つの問い、あるいは、問いの優先度について

哲学とは自明のものに留まりつづけることであるということをさらに深く理解するために、われわれとしては今ひとつ、本質の問いを問うこととしたい。 問い:エスカレーターとは何か? この問いは既に6月20日から7月20日にかけて問うた「美とは何か」という問…

無知の知と、粘着質の性格

論点: 哲学者は、自分自身が本質の真理について無知の状態にあるという事実を、忘れてはならないだろう。 命題の真理(これについては、6月4日〜12日の記事で論じた)のレベルでは、今日、知者になる、あるいはそれと同等の知識を手に入れることは、誰にと…

ジョルジョ・アガンベンと、学ぶことの喜び

論点: 哲学の学びとは一面において、本質の真理が、すなわち、あるものの「何であるか」が、いまだ見知らぬものとして明かされる体験である。 たとえば筆者自身の例でいうと、筆者には、最近アガンベン(ジョルジョ・アガンベン。最近、コロナ関連の発言で…

見えない宝を、守り匿いつづける営み

論点: 本質の真理を守り匿うことは、哲学に固有の務めである。 たとえば、真理という主題を取り上げて考えてみることにする。 真理は、たとえ人間にとって語られるということがなくとも真理であり続けるであろうというのが、われわれの直観である。語られよ…

ラグビーをすることの、見知らぬ幸福

論点: 本質の真理を問うこととは、生きることを学ぶことである。 生きるとは当たり前のことではなくて、学ばなければならないことである。そして、学ぶためには言うまでもなく、学ぶための意志が必要である。 たとえば、筆者にはこれまで、自分がプレーする…

「生は、生きるに値するのか」

論点: 本質の問いを問うことは、この世界と生を尊敬することを前提としている。 たとえば「美とは何か」と問う時には、ひとは美というものを何か問うに値する、探し求めるべき何ものかとして追い求めている。美しいものなどどうでもいいと思っているのなら…

学ぶとは、想起すること

論点: 本質の問いを問うことのうちで、想起することとしての思考の本性が示される。 たとえば、「美とは何か?」と問う時には、ひとはこれまで出会ってきた美しいものや出来事のことを絶えず思い返しながら、その振り返りのうちで美の本質に迫ろうとする。 …

美の本質についての定式化

前回までで、美に関して今回言いたかったことには一区切りがついているのではあるが、なお一つの論点を指摘しておくこととしたい。 論点: 美は真だけではなく、善にも関わる。 話が少し複雑になってしまうのではあるが、事柄それ自体がそうなってしまう必然…

「カタストロフを経て、私たちは……。」

論点: 真へと向かう限りにおいて、美は美たりうる。 真実を、何かあるものの、ありのままの姿を知ろうとすることは、時に息切れのするような、命をすり減らすような企てになることもある。しかし、本当に美しいと言えるような作品には、たとえほんのわずか…

芸術が燃え尽きたとき

論点: 前世紀の芸術は、一面においては、「美とは快をもたらすものである」という定式に対して挑戦を投げかけていたと言えるのではないか。 「美とは快をもたらすものである」は、トマスやカントにおいても踏襲されていた、いわば美に関する伝統的なテーゼ…

実在の探求

論点: 認識能力の戯れによる快の経験は、その深度が増すにつれて、真剣な仕事という側面が大きくなってゆく。 実在するものを描き、書くというのは、非常に労多き仕事であることは確かである。そのためには、実在を作り上げている複雑繊細な構造を丹念に追…

自然から存在へ

論点: 自然の美はわれわれをして、存在するものの奥深さという観念に親しませしめる。 いかなる芸術家も、自分の作り出す作品の美が、一本の樹木や、一筋の小川の流れのうちに宿る美を超えているとあえて主張することはないであろう。 そして、彼らの作品自…

芸術は何と闘っているのか

論点: 芸術作品は、人間や世界の真実の姿を描き出す。 子どもや青年たちは、現実から遊離した架空の世界や物語に夢中になるものである。 それは、すでに論じたように、彼らが遊びという、能力の開発・訓練の過程のただ中にあることと深い関連があるだろう。…

「きみの目に映るものを……。」

この辺りで問題に、別の角度からアプローチしてみなければならぬ。 論点: 美が認識能力の自由な戯れと関係を持つことは疑いえないが、その一方で、芸術作品は、現実的なものに至ろうとする飽くことのない努力のただ中で生み出される。 たとえば、一見現実と…

認識能力の総合競技

論点: 美を味わうためには、無意識的であるにせよそうでないにせよ、何らかの複雑な知的行程が必要とされる。 美における快は、カントによれば、「構想力と悟性の自由な戯れ」から生じる。「構想力と悟性」というのは、分かりやすい言葉に置き換えるならば…