2021-01-01から1年間の記事一覧
現象学、そして『存在と時間』において賭けられている根本の問いとは、次のようなものであると言ってよいだろう。 問い: 見ること、そして、生きることは、何か真実なものに関わる経験であるのでなければならないのではないか? もしもこの問いに対して「否…
「確証とは、存在者がじぶんとひとしいありかたにおいてじぶんを示すことを意味する。確証は存在者がじぶんを示すことにもとづいて遂行されるのだ。」(『存在と時間』第44節aより) おそらくここは、しっかりと議論を詰めておくべきところである。20世紀哲…
ハイデッガー自身が挙げている「壁にかかっている絵」の例に即して、以下の主張について考えてみることにしよう。ちなみに、この例は『存在と時間』第44節の真理論が語られている中で挙げられている、唯一の具体例である。したがってこの例は、どこまでも深…
ハイデッガーの真理概念に話を進める前に、まずは、伝統的真理概念「物と知性との一致」の内実を確認しておかなくてはならない。ハイデッガーはこの内実を、以下の三つのテーゼに要約している。 1 真理の「場所」は言明(判断)である。 2 真理の本質は判断…
いま論じている問題は非常に重要なものであるため、一歩一歩、じっくりと進んでゆくこととしたい。ハイデッガーも引用しているアリストテレスの言葉から、「哲学の原初」についての、古代ギリシア人自身の証言をたどっておくことにしよう。アルケー、すなわ…
最初に、『存在と時間』第44節におけるハイデッガーの思考の根本モチーフを確認しておくことにしよう。 ハイデッガーの思考の根本モチーフ: 古代ギリシア人たちに襲いかかり、哲学の営みそのものを開始させたその衝撃のただ中で、真理現象を根源的に捉え直…
さて、真理論である。これまでに得られた分析の成果を総動員しつつ、ハイデッガーが『存在と時間』第44節「現存在、開示性、真理」で答えようと試みているのは、次のような問いにほかならない。 『存在と時間』第44節を突き動かしている問い: 真理とは何か…
今回の記事から真理論に入る予定であったが、当該箇所である『存在と時間』第44節を読み直していたところ、おそらくはハイデッガーが全精力をもって書きつけた入魂の箇所であることもあって、読解に集中していたら精神が崩壊しかけてしまった……。無理をして…
私たちは前回までの記事で、ハイデッガーの「語り」論について見ておかなければならない論点をたどり終えた。最後にあらためて確認しておきたいのは、この「語り」論が、いわば二つの理念的なモメントによって構造化されているという点にほかならない。 ①「…
「互いに共に語りあっているときに沈黙する者は、語が尽きないひとより本来的に『理解させるようにする』こと、つまり了解を形成することが可能である。」(『存在と時間』第34節より) 人間同士が本来的な仕方で語り合うときには、互いが互いの言っているこ…
沈黙することについては、以下のハイデッガーの言葉を手かがりにして考察を進めてゆくこととしたい。 「おなじ実存論的な基礎を、語ることのもうひとつの本質からする可能性、すなわち沈黙することが有している。互いに共に語りあっているときに沈黙する者は…
「すでに理解している者のみが、耳を傾けることができるのだ。」(『存在と時間』第34節より) 聞くことと「語り」、「理解」をめぐる論点は哲学を学ぶ人にとって、非常に重要なものである。というのも、哲学を学ぶとはある意味で、他者の言葉に耳を傾けるこ…
次のハイデッガーの言葉を手がかりに、他者の言葉を聞くという行為について考えてみることにしよう。 「語ることと聞くこととは理解にもとづく。理解は、多くを語ることからも、忙しく聞きまわることからも生じない。すでに理解している者のみが、耳を傾ける…
生そのものを分節化する契機である「語り」は、私たち人間の存在を、その最も深いところから形づくっている。 すでに見たように、内存在、すなわち、世界のうちに人間が住まうその住まい方は、「情態性」と「理解」によって特徴づけられる。人間は気分づけら…
私たちが生きている日常の生の世界は常にすでに、分節化されている。たとえば、音を聞くという経験にしてからが、すでにそうである。 「『さしあたり』私たちが聞くのは、騒音や音のざわめきではだんじてありえない。軋む車であり、オートバイである。ひとは…
前回までの分析において、言明は「伝達しつつ規定する提示」として示されることになった。言葉は①提示し、②規定し、③伝達するという、比類のない力を備えている。しかしながら、いまや次のハイデッガーの言葉を手がかりにしつつ分析の進む方向を向け変えて、…
最後に、③言明は伝達する。言葉は言葉である限り、その本質からして、他者と分かちもつことに向かって開かれている。 哲学が「このハンマーは重すぎる」のような言明について考える際には、これを命題としてのみ見て、その意味と真理値(命題が真、あるいは…
②言明は規定する。「このハンマーは重すぎる」という言明にあって、述語「重すぎる」は主語「ハンマー」がいかにあるかを規定している。そのことによって、世界のうちを漂っていた視線がこのハンマーに集中させられて、さらに、ハンマーの「いかにあるか」(…
「語り」について論じるための下準備として、まずは言明、すなわち「このハンマーは重すぎる」のような表現はどのように機能するのかという問いに取り組んでみることにしよう。この問いは、人間存在にとって言語活動が持つ意味という問題に直結しているので…
内存在のあり方を規定する三つ目の契機は「語り Rede」であり、ここにおいてはじめて「言語とは何か?」という問いが正面から問われることになる……のではあるが、この場合にも第二の契機である「理解」についてなされたのと同じ注意点を、まずは喚起しておか…
「理解」についての議論を締めくくるにあたって最後に見ておきたいのは、「理解」の契機が、いわゆる意識の次元よりも奥深いところから人間を構成するものであるという論点にほかならない。 現存在、すなわち人間は常にすでに「投企してしまっている」(前回…
「理解」については、「理解の投企性格」という論点を掘り下げておかなければならない。 現存在、すなわち人間は「理解する」という仕方で世界のうちに存在している。彼あるいは彼女には、歩き方、椅子の座り方、キーボードの打ち方etc……が「わかっている」…
「理解」と可能存在、そして、これらの概念との密接なつながりのうちでしか語られえない「実存」の問題はある意味で、古代ギリシアで開始された哲学の伝統の根幹に関わっていると言えるのではないか。 ソクラテスのことを考えてみよう。ソクラテスは、それぞ…
「理解」について最も重要な論点とは、この契機が可能存在という、人間の根源的なあり方を指し示している点である。 「現存在とは、なにかをなしうることをさらについでに所有しているような、目のまえにあるものではない。現存在は第一次的に、可能存在であ…
『存在と時間』における「理解」の概念については、ハイデッガー自身は慎重に黙して語っていないとはいえ、身体性の問題が深く関わってくることを、議論をさらに進める前に指摘しておかなくてはならないだろう。 現存在、すなわち人間は、理解するという仕方…
世界における物、あるいは道具のあり方について改めて考えなおすところから、『存在と時間』で語られている「理解」という現存在(人間)のあり方に迫ってみることにしよう。 たとえば、椅子である。日常生活の中で、私たちは椅子を単なる物体の塊として経験…
「情態性」に次いで内存在のあり方を規定する契機の二つ目は「理解」である……が、『存在と時間』における「理解」の概念について論じ始めるにあたってまず指摘しておかなくてはならないのは、ハイデッガーがこの「理解Verstehen」なる語を、普通の意味とはか…
情態性について論じ終えるにあたって付け加えておかなければならないのは、ハイデッガーは気分なるものの押しとどめがたい執拗さについて語りつつも、人間がそれに対して抵抗してゆく可能性についても指摘しているという事実である。 「現存在は事実的に、知…
情態性と被投性の概念について、もう少し掘り下げて考えておくことにしよう。 私たちは自分自身がその時に感じている気分について、あまり注意を払わないまま済ましてしまうことがある。それどころか、嫌な気分や不機嫌な気分を感じている時には、何とかして…
論点: 情態性がむき出しにするのは、すでに存在してしまっており、存在しなければならないという、人間の裸形の事実性にほかならない。 良い気分、あるいは上機嫌の気分を感じている時には、ひとはわざわざ「わたしはなぜ存在しなければならないのか」と自…