イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

真理とは何か

道具としての階段

論点: 通常の場合には意識されることはないという性質は、階段という存在者にとって本質的なものなのではないだろうか。 すでに一度触れたように、私たちは毎日のように階段を利用しているけれども、「ああ、僕は/わたしは今、階段を利用しているなあ」とは…

剥き出しの生という問題圏をめぐって

論点: 哲学を探求するにあたっては、例外状態に対する鋭敏な眼差しが必要とされるのではあるまいか。 スカイツリーの例に即して、もう少し考えてみることにしよう。ソラカラちゃんやショッピングモール、それに何よりも展望台など、東京スカイツリーにはめ…

非常階段と緊急事態

階段には、前回までとはまた別の二類型を区別することもできるように思われる。 ①通常の階段。 ②非常用の階段。 数でいえば恐らくは圧倒的に少ないであろうが、②の階段というのも確かに存在する。たとえば、かの東京スカイツリー(雰囲気だけでも味わいたい…

しないでいることの困難さについて

階段の二類型(再提示): ①消極的階段、あるいは、自然の中の階段。 ②積極的階段、あるいは、建築における階段。 ②の「積極的階段」について、もう少し考えてみることにしたい。 すでに書いたように、階段を発明したことによって、人間が住空間を利用する際…

階段の二類型と、後期ハイデッガー哲学について

ところで、階段には以下の二つの類型を区別することができるのではないかと思われる。 階段の二類型: ①消極的階段。 ②積極的階段。 ①は急な斜面やちょっとした高低差のある場所に設けられる階段であり、消極的というのは、「階段を積極的に作りたいわけでは…

鉄道の駅に関する考察

論点: 私たちはふだん、階段の存在を主題的に意識することはない。 筆者は今回の問い「階段とは何か」を問うまでは、これまで階段のことを考えたり、ましてや考察するということはほとんどなかった。この点、おそらくは読者の方々も、多かれ少なかれ事情は…

ロングセラーは信頼できる

論点: 階段は、利便性と効率性においても優れた移動手段である。 階段についての考察を続けよう。同じ高いところに移動するのに、ハシゴと階段のどちらが楽であるかといえば、後者の方であるのは明らかである。階段は足だけで上り下りすることができるけれ…

階段の安全性と、モスバーガーをめぐる考察

筆者も酔狂は嫌いではないけれども、階段とは何かという問いを問うことは、今回の機会を除いては、おそらくはやってこないのではないかと思う。なるべく哲学的に実り豊かなものとなるように心がけるので、興味のある奇特な方はお付き合いいただければ幸いで…

もう一つの問い、あるいは、問いの優先度について

哲学とは自明のものに留まりつづけることであるということをさらに深く理解するために、われわれとしては今ひとつ、本質の問いを問うこととしたい。 問い:エスカレーターとは何か? この問いは既に6月20日から7月20日にかけて問うた「美とは何か」という問…

無知の知と、粘着質の性格

論点: 哲学者は、自分自身が本質の真理について無知の状態にあるという事実を、忘れてはならないだろう。 命題の真理(これについては、6月4日〜12日の記事で論じた)のレベルでは、今日、知者になる、あるいはそれと同等の知識を手に入れることは、誰にと…

ジョルジョ・アガンベンと、学ぶことの喜び

論点: 哲学の学びとは一面において、本質の真理が、すなわち、あるものの「何であるか」が、いまだ見知らぬものとして明かされる体験である。 たとえば筆者自身の例でいうと、筆者には、最近アガンベン(ジョルジョ・アガンベン。最近、コロナ関連の発言で…

見えない宝を、守り匿いつづける営み

論点: 本質の真理を守り匿うことは、哲学に固有の務めである。 たとえば、真理という主題を取り上げて考えてみることにする。 真理は、たとえ人間にとって語られるということがなくとも真理であり続けるであろうというのが、われわれの直観である。語られよ…

ラグビーをすることの、見知らぬ幸福

論点: 本質の真理を問うこととは、生きることを学ぶことである。 生きるとは当たり前のことではなくて、学ばなければならないことである。そして、学ぶためには言うまでもなく、学ぶための意志が必要である。 たとえば、筆者にはこれまで、自分がプレーする…

「生は、生きるに値するのか」

論点: 本質の問いを問うことは、この世界と生を尊敬することを前提としている。 たとえば「美とは何か」と問う時には、ひとは美というものを何か問うに値する、探し求めるべき何ものかとして追い求めている。美しいものなどどうでもいいと思っているのなら…

学ぶとは、想起すること

論点: 本質の問いを問うことのうちで、想起することとしての思考の本性が示される。 たとえば、「美とは何か?」と問う時には、ひとはこれまで出会ってきた美しいものや出来事のことを絶えず思い返しながら、その振り返りのうちで美の本質に迫ろうとする。 …

美の本質についての定式化

前回までで、美に関して今回言いたかったことには一区切りがついているのではあるが、なお一つの論点を指摘しておくこととしたい。 論点: 美は真だけではなく、善にも関わる。 話が少し複雑になってしまうのではあるが、事柄それ自体がそうなってしまう必然…

「カタストロフを経て、私たちは……。」

論点: 真へと向かう限りにおいて、美は美たりうる。 真実を、何かあるものの、ありのままの姿を知ろうとすることは、時に息切れのするような、命をすり減らすような企てになることもある。しかし、本当に美しいと言えるような作品には、たとえほんのわずか…

芸術が燃え尽きたとき

論点: 前世紀の芸術は、一面においては、「美とは快をもたらすものである」という定式に対して挑戦を投げかけていたと言えるのではないか。 「美とは快をもたらすものである」は、トマスやカントにおいても踏襲されていた、いわば美に関する伝統的なテーゼ…

実在の探求

論点: 認識能力の戯れによる快の経験は、その深度が増すにつれて、真剣な仕事という側面が大きくなってゆく。 実在するものを描き、書くというのは、非常に労多き仕事であることは確かである。そのためには、実在を作り上げている複雑繊細な構造を丹念に追…

自然から存在へ

論点: 自然の美はわれわれをして、存在するものの奥深さという観念に親しませしめる。 いかなる芸術家も、自分の作り出す作品の美が、一本の樹木や、一筋の小川の流れのうちに宿る美を超えているとあえて主張することはないであろう。 そして、彼らの作品自…

芸術は何と闘っているのか

論点: 芸術作品は、人間や世界の真実の姿を描き出す。 子どもや青年たちは、現実から遊離した架空の世界や物語に夢中になるものである。 それは、すでに論じたように、彼らが遊びという、能力の開発・訓練の過程のただ中にあることと深い関連があるだろう。…

「きみの目に映るものを……。」

この辺りで問題に、別の角度からアプローチしてみなければならぬ。 論点: 美が認識能力の自由な戯れと関係を持つことは疑いえないが、その一方で、芸術作品は、現実的なものに至ろうとする飽くことのない努力のただ中で生み出される。 たとえば、一見現実と…

認識能力の総合競技

論点: 美を味わうためには、無意識的であるにせよそうでないにせよ、何らかの複雑な知的行程が必要とされる。 美における快は、カントによれば、「構想力と悟性の自由な戯れ」から生じる。「構想力と悟性」というのは、分かりやすい言葉に置き換えるならば…

遊戯の効用

論点: 遊戯は、人間を現実上の拘束から解放しつつ自由な活動状態のうちに置くことによって、人間の諸能力を開発し、育成する。 上の論点はすでにイマヌエル・カントによって指摘されているものではあるが、ここでは筆者なりのしかたで問題を整理してみるこ…

子どもは遊ぶことを好む

美の本質を掘り下げるためには、遊びという行為の本質を掘り下げてみる必要がありそうである。 論点: 子どもと若者は、遊ぶことを好む。 この論点は観察可能な経験的事実として異論の余地がなさそうであるが、ここでは冗談というものを例にとって考えてみる…

真正な遊戯

さて、本題の方に戻ることとしたい。 美に関するカントのテーゼその2: 美における快は、構想力と悟性の自由な戯れから生じる。 「戯れ」とは要するに、「遊び」ということである。これから上のテーゼをじっくりと掘り下げてみることとしたいのだが、カント…

古代ギリシアの偉大

「自由な戯れ」の方に話を進める前に、もう一つ論点を確認しておくこととしたい。 論点: 自己目的性という性格を通して、美と真理の間にある親縁性がすでに予感されている。 美とは何か他の目的のために奉仕するのではなく、自己目的的なものへと生成した感…

「自由な戯れ」と、晩年のドゥルーズ

美とは感覚のための感覚、すなわち、自己目的へと生成した感覚のことを言うのではないだろうか。 視覚の場合を例に取ろう。私たちは通常、視覚を視覚それ自身以外の目的へと奉仕させている。たとえば視覚は、情報伝達の媒体となったり、次の行為のための刺激…

誕生日のケンタくん

考察を進めてゆくにあたって、しばらくは、巨人の肩に乗らせてもらうこととしたい。 美に関するカントのテーゼ: 関心を呼び起こすことなしに気に入るものが美しい。 ここ数百年のうちで美について語られた哲学の名著の中でもずば抜けたものの一つとしては言…

バラが部屋に届いたら

論点: 美を鑑賞するためには、日常的態度からの態度転換が必要である。 これは前回の論点とも関連することだが、すでに美の本質についても何事かを教えてくれるものなのではなかろうか。 前回すでに名前を挙げたけれど、たとえば最近の筆者はとある事情から…