イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

フィクションの危険性

1.唯一的な主体としてのわたしへの、わたし自身の存在の贈与あるいは外傷。(現実的なモメント) 2.コギト、すなわち思考する主体としてのわたしの思考。(想像的なモメント) 2は、1にもとづくことにおいてのみ可能になります。そして、2は1のモメントに…

外傷と事後性

「存在するという運命は、それを望むにせよ望まないにせよ、唯一的な主体であるわたしに課せられている。」 わたしが、この世にこの人間として生まれてきたこと。そして、わたしが今ここにこの人間として、存在していること。 このことは、わたしの自由には…

わたしがこの世に生まれ落ちたとき

「人間の自由は、おのれ自身にたいして贈られる運命を受け取ることのうちにこそあるといえるのではないか。」 人生を自己実現という観点のみから見ると、わたしの生は、わたしがわたし自身の望むことを現実化してゆくことに尽きるようにもみえます。けれども…

世界の贈与

「世界は唯一的な主体であるわたしに対して、ただ一つ贈与される。」 わたしと同じように、わたしが生きることになるわたしの世界もまた、唯一的であるという特徴を持っています。 わたしは、誕生のときに与えられたわたしの特異性に応じて、わたし自身の世…

窓を眺める子供は

もう一度、ニヒリズムのほうに話を戻すことにします。 「ニヒリズムの根底には、わたしにとって他者が存在しなくなっているという事情があるのではないか。」 この世界には意味がないと、わたしは感じている。しかしそれは、実はわたしがわたし自身の観点か…

Appendix:別の深刻な問題

「ニヒリズムの問題は深刻ではあるが、最も深刻であるとは限らない。」 前回すでに論じたように、おそらくニヒリズムの問題は、社会-経済的な条件が整った、物のあふれる「豊かな世界」において本格的に発生します。その意味では、この問題は「特権的に恵ま…

物があふれているからこそ……。

「ニヒリズムが蔓延しているということは、人間が他者と取り結ぶ関係が変化しつつあることの兆候でもあるのではないか。」 今日の人間は確かに、他者たちとともに生きてゆくことに倦み疲れています。けれども、このことは逆に、他者への渇望がかつてよりも深…

ニヒリズムは派生的である

「望むにせよ望まないにせよ、わたしには、あなたとの関係を求めるのをやめることができない。」 関係の具体的な状況はさまざまであるとはいえ、これが人間の生を根底から条件づける渇望であるように思われます。 わたしは確かに、あなたと呼べるような他者…

渇望、それでもなお

「本当の意味での他者たちとの関係は、関係の不可能性に直面するところからはじまるのではないか。」 お互いに、自分が見たい面だけを相手のうちに認めつづけていること。そして、他者がわたしとは違う仕方で考えているということに、私が耐えることができな…

他者のいない世界

人と人との関係については、生きるうえで次のことを改めて受け入れておいた方がよいのではないか。 「人に関わらないことも、人と関わりつづけることも、人間に苦しみをもたらさずにはおかない。」 人間と深く関わるということは、おそらくは誰にとっても、…

関係をめぐる残酷な事実

生きることの意味は本質的にいって他者との関係のうちにこそあるのではないかと思われますが、その一方で、次のような事情を忘れることはできません。 「わたしとあなたとの関係は、どこかで終わってしまうことがありうる。」 かつてはあれほど多くのことを…

別の開け

視点を変えて、別の角度からも事態を眺めてみることにします。 「わたしという主体は唯一的ではあるが、それにも関わらず、ただひとりで孤絶して生きてゆくのではない。」 おのれに固有の存在可能性を選びとることは、あくまでも唯一的であるこのわたしに委…

現実の唯一性

物質的な面においてはともかく、精神的な面からいえば現代がある種の「乏しい時代」であることは間違いなさそうに思われますが、そのことに不平ばかり並べているわけにはゆかないのは確かです。 「唯一的な主体であるわたしは、みずからに固有な存在可能性を…

この時代について思うこと

この時代とニヒリズムの問題について考えるために、まずは次の点を確認しておくことにします。 「認識と判断のすべては、唯一的な主体であるわたしに委ねられている。」 わたしの持つこの自由は、解放と同時に孤独をも意味しています。わたしは誰にも束縛さ…

哲学とは別種の「知恵」

ニヒリズムについては、次の二つの捉え方があるといえるのではないか。 1.ニヒリズムは、特定の人間が世界に対して取る態度である。 2.ニヒリズムは、人間の世界のあらゆる側面にひそかに浸透している。 すでに論じたように、筆者は、ニヒリズムという概念…

死とニヒリズム

重苦しい話題ではありますが、まずは次の点から考察をはじめてみることにします。 「死は、明示的ではない仕方でではあるが、人間の行うあらゆる営みに暗い影を投げかけつづけているのではないか。」 ふだんから死のことを語る人というのはそれほど多くあり…

最後の棘

イデア性と受肉性の関係についての考察からは、次のような実践的帰結が導かれるように思われます。 「生の根本問題は、死ぬまでに何をなすべきかということのうちにある。」 人間は、人生のうちでさまざまに夢想します。とくに、哲学徒ともなると、それこそ…

イデア性と受肉性

ある存在者、または出来事については、次の二つの側面に注目することができます。 1.イデア性 2.受肉性 1は、そのものの「何デアルカ」を示す、理念的なアスペクトです。これに対して、2は、その理念がまさにこの世界にリアルなものとして実現されるさいの…

他者の身代わり

もう少し、信仰の言葉に耳を傾けておくことにします。 「受肉したロゴスであるキリストは、人間に、主体性の究極のあり方を示した。」 信仰の言葉によれば、神がキリストとなってこの世に降ってきた目的はさまざまにあるけれども、その一つは、人類の教師と…

「不合理ユエニ我信ズ」

さて、信仰の言葉は、次のように語っています。 「受肉したロゴスであるキリストは、人間の罪のために十字架上で死に、墓に葬られ、三日目に復活した。」 もはや、ここまで来ると何でもありなのではないかという感は否めませんが、あらゆる思考を覆す絶対的…

あたかも砂のように

1.思考する意識としてのわたしの「わたしはある」(コギト命題) 2.絶対者としての神の「わたしはある」(「主の御名」) 1のコギト命題はデカルトが主張するように、絶対確実に真です。けれども、この命題は「わたしがそのつど思考するかぎりにおいて」と…

「わたしはある」

絶対的転覆について考えるために、信仰の言葉を参照してみることにしましょう。『出エジプト記』第三章において、シナイ山でモーセから名を尋ねられた神は、次のように語ったとされています。 「わたしはある。わたしはあるという者だ。」 「わたしはある。…

デカルトと絶対的転覆

ロゴスの受肉のほうに話を戻しましょう。 「もしも神が存在するならば、神には人間の思考と想像を超えることを行うことができると想定するのを妨げるものは、何も存在しない。」 ロゴスの受肉という主題についても、このことが当てはまります。「ロゴスの受…

死は想像不可能である

想像不可能な出来事が哲学にとって無縁なものではないことを示す例として、私たちすべてにとって決して無関係ではありえないものがあります。 「死は想像不可能である。」 わたしが思考する意識であるかぎり、そのわたしは、わたし自身が消滅するという事態…

受肉の問題は哲学に属する

ロゴスの受肉というイデーに対しては、当然、次のような疑問が浮かんでくることが予想されます。 「ロゴスの受肉というのは、話としてはあまりにも荒唐無稽すぎる。この話を哲学で扱うのは、さすがに無理というものではないか。」 このような疑問はいうまで…

ロゴスの受肉

さて、ここから先は、哲学的思考のリミットとでも呼ぶべき領域に足を踏み入れてゆくことにします。 「信仰の言葉は、ロゴスは受肉して一人の人間となったと語っている。」 第二の位格である子としてのロゴスは、世界の創造に関わっていました。世界はロゴス…

法-外な贈与

本題に戻って、もう一度、神の愛の哲学的表現のほうに立ち返ってみることにしましょう。 「神の愛とは、現存在への、超越の内部超出のことである。」 4月には、真理の審級の、わたしとあなたへの現前という問題を扱いましたが、心あるいは意識については、…

Appendix:コギトの無力

思考の(偽)メシア性と独断性という問題に行き当たった時には、次のような疑問が浮かんでくることは避けられないように思われます。 「哲学的思考は、その本質からいって、独断的であるほかないのだろうか。」 遺憾ながらそうであるほかないというのが、筆…

メシア性と独断性

思考の(偽)メシア性の問題については、糾弾と否認というモメントに注目しないわけにはゆきません。 「思考はメシア的であろうとするかぎりにおいて、必ずその独断性を非難されないわけにはゆかない。」 仮に、ある人が「わたしはメシア、すなわち救世主で…

思考の(偽)メシア性という問題

1.本来的思考において語られることは、父の意に適っている。 この規定を眺めていると、次のような疑問が浮かんでくるのは避けられないように思われます。 「はたして、神の意に適う思考などというものがありうるのだろうか。」 自分が考え、話していること…