イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「わたし」についての探求の終わりに

今回の探求の結論: わたしは他の誰でもない「この人間」である。 私たちは、意識の与えと「この人間」の与えという二つの与えが重なり合い、「わたしはこの人間として、わたし自身である」という言明が成立する地点にたどり着きました。考察を掘り下げてゆ…

この時代の病

反出生主義の論理構造: 1. 至高性の直観を持つわたしは、自分自身を純粋意識として思い描く。 2. しかし、それゆえにわたしは、わたし自身が血と肉を備えた一人の「この人間」であることを受け入れることができない。 「この人間」としてのわたしは、病み、…

反出生主義の根底にあるもの

今回の探求も、そろそろ終わりにさしかかりつつあるようです。 論点:わたしの存在の与えと「この人間」の与えとは、理念においては区別できるとしても、現実においてはひとつながりの与えとして与えられるのではないだろうか。 問題を整理してみましょう。…

ハイデッガーについて

哲学においては、根本的な事柄をいくら詳細に論じたとしても十分ということはまずありませんが、そろそろわたしの存在の与え、あるいは意識の与えという論点から次の論点(「この人間」の与え)に移ることにします。しかし、その前に、次の点をあらためて確…

認識論のうちに、非-認識論を

コギトの存在について: コギトの存在は、認識のあらゆる力能から離れたところで捉えられなければならない。 イブン・シーナーは、およそ身体の感覚なるものを全く持つことのない「空中浮遊人間」を想定していましたが、おそらくはそれをさらに突き詰めて、…

「スム・エルゴ・コギト」あるいは、存在の与えについて

「わたし」という存在に関する今回の探求も、そろそろ大詰めを迎えつつあるようです。 コギトに関する一考察: 「コギト・エルゴ・スム」という命題は、認識の順序からすれば正しいけれども、事柄の順序からいえばむしろ「スム・エルゴ・コギト」となること…

「意味のある死」

問いへの答え:わたしが死んだ後にも、世界はそのまま続いてゆくであろう。 わたしの死は、わたしの想像を超えている。それというのも、意識としてのわたしには、自分自身についてはいつでも「わたしは存在する」としか考えることができないからです(所謂「…

わたしが死んだ時、世界は

論点をさらに掘り下げるために、一つの問いをここで提起しておくことにします。 問い: わたしが死んだ後にも、世界はそのまま続くのだろうか。 常識的に言えば答えは分かりきっており、たとえわたしが死んだとしても、世界はそのまま続くに決まっているとい…

事実性の与えについて

事実性の与えについて: 事実性における「この人間であること」の与えは、超越論的な意識の与えに劣らず厳粛なものであるように思われる。 考える「わたし」には、「わたしは実は『この人間』ではなく、むしろ『この人間』であると思い込まされているだけな…

「他の誰でもない、この人間であること」

わたしの「人間性」: わたしが「この人間」であることの真理性は、絶対確実性ではなく事実性のオーダーに属する。 すでに見たように、わたしにとって、わたしが存在することは絶対に疑うことのできない真理です(「コギト・エルゴ・スム」)。これに対して…

超越論的-経験的二重体

命題の再提示: わたしとは、他の誰でもない「この人間」である。 これからこの命題を擁護してゆくにあたって、まずは次の点について考えてみることにします。 人間存在の規定: 人間とは、超越論的-経験的二重体である。 ここでは、ミシェル・フーコーが『…

コモン・センスを擁護する

反対命題の再提示: わたしとは、純粋意識である。 悪霊の想定(前回までの記事参照)を踏まえると、この反対命題から出発して、次のような立場に立つことも可能です。 反人間主義的自己観: わたしとは、「この人間」ではない。 このような自己観の行き着く…

「名づけえぬもの」

哲学的観点から見た、悪霊の排除不可能性: 何ものかがわたしを「この人間」であると思いこませようとしているという可能性は、原理的に言って排除することができない。 パラノイア的妄想の極致ともいえるこの可能性を本気で信じるとすれば、その時ひとは一…

懐疑と悪霊

引き続き、「コギト・エルゴ・スム」の掘り下げにいそしむことにします。 純粋意識としてのコギト: 「コギト・エルゴ・スム」において見出される「わたし」とは、少なくともその最初のモメントにおいては、「この人間」としての「わたし」ではない。 すべて…

古典的真理の確認

命題: わたしとは、他の誰でもない「この人間」である。 フィクションに関する前回の探求からの続きになりますが、上の命題に対してもう一つの命題を対置しておくことにします。 反対命題: わたしとは、純粋意識である。 しばらく、こちらの反対命題につい…

「学問よ、お前こそが俺の……」

今回の話とは関係ないようでいてこの後すぐ戻るから、どうか聞いてほしい。僕は最近、思ったんよ。 「……何ですか?」 いやね、他の人からしたらほんとどうでもいい話だとは思うんだけどさ、でも同じ哲学の道をゆく猛者なら多分わかってくれるはず。人生がこ…

求道者の述懐

まずは、今回の探求で掘り下げてみたい命題を提示しておくことにします。 命題: わたしとは、他の誰でもない「この人間」である。 前回の探求に引き続き、筆者自身の例を取るならば、筆者は竹野内豊でもなければ、ジャスティン・ビーバーでもなく、philo198…

「わたし」とは何か

今日から予定通り「わたしとは何か」という問いに取り組むことにしますが、最初に次の点を確認しておくことにします。 自己への「立ち返り」: 「わたし自身」なるものに立ち戻ること自体が、精神にとってひとつの達成である。 ほとんどの子どもは、「自分と…

フィクションについての探求の終わりに

今回の探求の終わりに、真理に関する先人の一見解を参照しておくことにします。 アリストテレスによる真理の定義: あるものをあると言い、あらぬものをあらぬものと語るのが、真理である。 あるものをあらぬものと見なし、あらぬものをあると語るのがフィク…

眼差しの罪

問題提起: デカルト的自己観の受け入れから帰結するのはつまるところ、現実からのデタッチメントという事態に他ならないのではないだろうか。 わたしを純粋意識として捉えるということは、いわば自己を純粋なまなざしとして捉えることに他なりません。それ…

認識論的な悪の源泉

トマス的自己観: わたしとは人間であり、その限りで、この世においてはわたしの身体から分離する事ができない。 わたしを純粋意識として捉えるデカルト的自己観とは異なって(前回の記事参照)、この自己観によるならば、わたしが「この人間」であることは…

デカルト対トマス・アクィナス

問題の根幹には、わたしなるものをめぐる二つの考え方の相克が横たわっているように思われます。 わたしをめぐる二つの見解 ①デカルト的自己観: わたしとは、純粋意識である。 ②トマス的自己観: わたしとは人間であり、その限りで、この世においてはわたし…

快感原則から存在論へ

私たち自身の実存に関する一考察: 苦しみの存在は、人間が「この現実」のうちに生きているという根源的な条件を明るみに出す。 苦しみにおいて、私たちはしばしば「この現実」そのものから逃れようとしますが、「この現実」なるものは、忘れようとしても忘…

「この現実」

私たち自身の実存に関する一事実: 私たち人間はそれぞれ、たった一つしかない「この現実」を生きている。 たとえば、このブログを書いている筆者自身はいま、33歳の男性としてこの文章を書いています。 いま「男性」と書きましたが、筆者も他のすべての人間…

〈存在〉の問題圏へ

フィクションの「有益性」については他にもさまざまな視点から考察を加えることができそうですが、そろそろ、ハードな反フィクション論の側の検討に戻ることにします。 ハードな反フィクション論の中核: フィクションは、人間に「この現実」の重みを見失わ…

あの頃のマンガたち

フィクションの有益性②: フィクションは、鑑賞者の人格形成に非常に大きな役割を果たしうる。 筆者自身の例で言えば、筆者は十代の頃に読んださまざまなマンガから、極めて多くのことを学んだように思います。その中から数例を、ここで思いつくままに挙げて…

筆者自身の経験から

フィクションに関する問題提起: フィクションに気晴らしとしての価値があるとして、果たして、フィクションの価値はそれに尽きているのだろうか。 フィクションが場合によってはこの上ない気晴らしということは、ほとんど論証を要しません。しかし、作り手…

実存の意味を問わねばならない

気晴らしという行為について、もう少し掘り下げて考えてみることにします。 気晴らしという行為の本質: 気晴らしとは、実存の一時的な忘却である。 すでに述べたように、気晴らしによって面倒な物事のすべてを忘れることは、人間にこの上ないリフレッシュの…

気晴らしあれこれ

前回に引き続き、反対論の検討から考察を始めてみることにしましょう。 ハードな反フィクション論に対する反対論: フィクションは、何らかの点で人間に対して有益な役割を果たしている。 まず最初に思いつくのは、フィクションは人間にとって、気晴らしとし…

後半戦の開始

そろそろソフトな反フィクション論を離れて、ハードな反フィクション論の方の検討に移ることにします。 ハードな反フィクション論……およそ、ありとあらゆるフィクションの存在を批判する。 この論に対してフィクションの「弁明」を行うとすれば、その後の論…